2009年 08月 18日 ( 1 )

 

自分の中のCocco【後編】

2003年、Coccoを封印してから5年が経った2008年のある日、
久しぶりにみなとみらいのHMVに入ったら、
カ行の最後のほうに青いジャケットのCDが置いてあった。
白いドレスでお辞儀をして、音楽シーンから姿を消したCoccoのものだった。
視聴ブースもなく、不用意にCoccoを聞けば依存というダメージを受けることは分かっていたけれど、
手に取ったアルバムを棚に戻すことも出来ず、結局購入してしまった。


ドキドキしながらCDをかけると、鳥肌が立った。
これがCocco…
自分の痛みや苦しみを美しい旋律に流して捨てていた面影はまったくなかった。
優しく力強く前に進む光みたいなものが歌声を通じて、見えた。
嵐のあとの、優しい南風が吹く穏やかな夕暮れみたいな歌たちだった。

CDを聞いて、こんなにほっとしたことはなかった。
ああ、よかった。この人も嵐の海を抜けて、ちゃんと陽のあたる港へたどり着いたんだ、と安堵した。
まるで生まれ変わったみたいだ、と思った。
けれど、ちゃんと自分の足で歩いてたどり着いた強さなんだと感じさせるものがあった。
悲しそうに苦しそうに歌うCoccoから、歌を愛していると楽しそうに唄うCoccoへ。
憎悪や嫉妬や自己嫌悪を優しさという強さに変換するパワー。
閉じた過去の思い出の世界から、開かれた未来への希望へ方向転換する柔軟性。
生きてくってこういうことだと見せつけられた気がした。

かつて
「行かないでって言って 離さないと言って

枯れてゆく夢を 腕に抱いて感じて

壊れてしまうのは何故なの なんて

今は動けない足で いつか

でも大丈夫 あなたはもう

私を 忘れるから」


と唄っていた少女は


「ここへおいで 忘れてもいい

何度でも思い出すから

私はここで 覚えてるから」

と言えるまで強くなった。
その事実だけでものすごく勇気づけられた。
おびえて動けなくなっていた自分が少し歩き出そうとしているときに重なって、
大丈夫、まだまだやれる、と自分を励ましてくれた。


ザンサイアンは2006年にリリースされたものなので、発見した時点でリリースから2年が
経過していた。けれど、個人的にはこのタイミングでよかった。
自分を置いて進んでいってしまうCoccoを見ることになるのであれば、
それはそれで苦しかったかもしれない。
音楽にもタイミングというものがあるんだろう。

さて、Coccoをほったらかしにしていたら、復活した彼女はアルバムを2枚もリリースしており、
もう1枚、「きらきら」という作品があることを知った。
バンドメンバーも根岸さんから長田さんに代わったらしいということもそのとき知った。
そういえばくるりとCD出してたな、と思い出す。
「きらきら」さっそく聞いてみると、一瞬面食らう。
ロンドンに来たはずなのに沖縄に着いちゃった、みたいな、
これはハードロックじゃねぇ!という感覚のズレのようなもの。
なのに相変わらずCoccoの身体の一部としては違和感がない。
伝えたいものが伝わってくる。
何より、聞いててとっても幸せな気分になる。
歌詞が、とかそういうスケールじゃなくて、
唄ってる彼女自身がとっても楽しそうなのが聞いてて伝染してくる。
これは多分音楽的なことを言えば以前の方向性とは違うだろうけど、
こういうのもいいじゃないか、むしろこっちのがいいんじゃないかとさえ思える。


これまで「自分」の気持ちを中心として「あなた」とのことを唄った彼女が、
今では「自分」を確立して「あなた」へと優しく呼びかける。
そんなスタンスがどの歌にも流れている。


彼女は自分の世界観を表現する手段を確かに持った、芯の強いアーティストだ。
自分は勝手に戦友だと思っている。
彼女の歌といろんなことを乗り越えてきた。
辛すぎて聞けなくなってしまったこともあったけれど、もう大丈夫だ。
嵐のあとの穏やかな幸せを私も、彼女も知っている。
そこに流れるべき音楽も。
もう大丈夫。
ハレヒレホ。


楽しい優しい穏やかな毎日が、みんなみんなにありますように。
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by eringish | 2009-08-18 17:42 | 音楽  

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