2009年 11月 29日 ( 1 )

 

最近思うこと

よく「自分を好きになれない人は人から好かれない」みたいなことを耳にするんだけど、
なんとなく掘り下げるとなるほどね、と思う。


曰く、「自分は誰かかもしれなかったし、誰かは自分かもしれない」と考えたとき、
自分を愛せる人は他人を愛せるし、他人を愛せる人は少なくとも相手から
「嫌われている」という負の感情を感じ取りにくいからだ。
「自分を好きになれない人は人から好かれない」の対偶は
「人から好かれる人は自分が好きである」である。
自分かもしれない他人ならどこかで自分を愛してくれる可能性を見出すことは可能だ。
そして、そんな他人が一時的に自分に対して嫌悪を向けていても、
「いずれ理解しあえるはずだ」と将来的に友好的な関係に発展させられるかもしれない。
だから、(好かれているというのが)錯覚だとしても、なるほどそういえないこともない。

もしかしたら自分という無力な存在が、何かの拍子に
その人の一生にわたる何かを残す存在になる可能性もあるし、まったくないかもしれない。
逆にその人から学び取ったものが自分にとっては一生の宝になるかもしれない。
現に、相手はもうとうに忘れてしまっただろうけれど、自分の中で息づいている他人の言葉が
たくさんある。
「うちの両親は結婚してもう何十年もたつのに、毎晩手をつないで眠るんだ」とか、
「私あなたが好きだからいつも声かけるのよ」とか、
もしかしたら誰にでも言っているのかもしれないような
そんなことでも自分の心は動くし、誰かの心も動くのだろう。


どんなに嫌だと思う相手でも、人間である以上何かを感じて考えて行動しているわけで、
その理屈というのは十人十色の個性といえども、全てが理不尽であるはずはない。
例えば死んでしまえばいいのに、と思っている相手でも、電車の中では席を譲ったり、
赤い羽根募金にいくらか投じてみたり、夕飯時のニュースに心を痛めているかもしれない。
見習えないところがない人などいるはずがない。
見えないのは見ようとしないからだ。想像しようとしないからだ。


誰かから理不尽な憎悪を向けられたとして、それはその人に怒りという作用を及ぼす何かがあったからだ。
必ずしも憎まれているのは自分自身ではないかもしれない。
家庭で嫌なことがあったり、健康状態がよくなかったり、仕事がうまくいかなかったり、
いつもなら受け流せることがそうできないほど、その人のこころがささくれ立っているからかもしれない。
そう考えると、憎まれること自体はやはりいい気持ちはしないまでも、
なんだかその人にも、その人の心が早く平らになって思いやりの心が持てるようにと、
優しい気持ちになれる気がする。
もちろん、自分自身に非があったのかは問うて当然だが、自分の心が暗くなるまでそれに付き合うことはないと思う。
恥じるべきを恥じたら、次は同様のことを繰り返さないようにだけ気をつけて顔をあげればいい。
相手に合わす顔がないほどのことであれば、せめていつか顔を合わせたときに後悔しないだけ報いればいい。


見るもの、聞くもの、感じるもの全てに自分自身が関与する余地がある。
思いを馳せてその一部になることもできる。
全てのたたずまいから、学び、真似び、何がそうさせているのか、
背景にある全てに思いを行き渡らせる。
それから自分が善き様であるように悔いのないよう振舞えば、たいていのことはうまく運ぶ。


こうある自分なら、愛せる。
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by eringish | 2009-11-29 01:35 | ワシ的発言  

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