2010年 06月 30日 ( 1 )

 

ダークサイドの淵にとどまる

引き継いだ仕事にちょっとしたミスがあり、
上司と取引先に謝りに行くことになった。
謝りに行くことなんて前の会社ではざらだったから、
前任者のケアレスミスなので自分の直接のミスではないにしろ、
別にこれくらい謝ってすむならいいやと思っていたら、
係長の機嫌がすこぶる悪い。
謝りに行くのは何がなんでも屈辱的で耐えられないことみたいだ。

たいしたことないや、とヘラヘラしてたら
上司の目が「何ヘラヘラしてるんだ、ちょっとは反省しろ」
と言わんばかりに冷ややかな視線を送っている。
「関係ないや」と思いつつもだんだん元気がなくなっていく。
「そうだ、前任者との引き継ぎのとき充分確認しなかった自分が悪いんだ」
「取引先に謝りに行ったら、自分が全部矢面にたって説明すべきだろう、
何と言って謝ったらいいのか」
だんだん自分の頭の中が言葉に窮して呆然としている自分の姿で一杯になる。
心の奥の方から何とも言えない焦燥感と不安が頭をもたげてきて、
頭の中では「このまま鬱になるのではないか、
そうしたらもう二度とこの状態まで戻れないのでは」
という絶望的な焦りが高まってくる。

しかし、そこで自分を客観的に見てみると、
係長の外圧とも言える「お前は今こういう心境になるべきなのだ」
という枠組みに自分を当てはめようとして
「こんないつでも楽しさ100%の自分でいることは不謹慎でよくないことなのだ、
自分のせいで他人を不愉快にしているのだ」と自分を否定するようになる。
この「今こう感じるべき」という力、きっとそれを「場の空気」と言うのだろうが、
に強く反応しすぎてしまうがゆえに自分はわけのわからない絶望と不安感、
空虚感、ひいては「今あるべきと考える自己像と本来表現したい自己像」
との離脱感を感じてしまうのではないだろうか。

だから、回りの空気が自分に反省や落胆を期待するものである場合には、
違和感をあまり突き詰めて考えない方がいいのかもしれない。
必要以上の自罰感は解離を招く。
失敗に対する改善策こそ練れど、失敗した自分の存在や
チャレンジ自体を否定することは不毛であり、
たとえそう振舞うことで周囲からの同情や慰めが得られたとしても、
費用対効果で考えると落ち込むことで失うものの方がはるかに大きい。

自分は自分でいい、自分の感情は誰が咎めたとしても理にかなうものだ、
と言ってしまうべきなのだ。
そのためには日頃から自分の尺度を信じられるように
自分なりの正義にしたがって生きるように心がけることが大切だ。
自分の良心を育て、背かずに生きることこそ
「自分の行動に責任を持つ」ことであり、
そうした以上は自分を否定する必要はないと考える。

善悪を決めるのは自分だが、その基準は
「他人を全面的には否定しないまでも自分がされたら不快かどうか」
という可変的なものである。
深く考え込むことなくこのモノサシを使えるようになるまで
人を傷つけて自分も刺し違えたり、他人のモノサシばかり正しく見えて
自暴自棄になったりもしたけれど、現在の自分には息をする如く
このラインを見極めることができる。

きっと未来の私には自分のモノサシが見えなくなるときもあるだろうけど、
必ず持っていることだけ信じていてほしいと思う。
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by eringish | 2010-06-30 23:38 | ワシ的発言  

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